心とは(三)

会主 丸山維敏

 

 

くどいようですが、ここに再び執行草舟先生の神についての定義を記させて頂きます。

会員諸兄姉には、この定義を丸暗記して頂くことを強くのぞみます。

「神とは、この宇宙の根源的実在であり、我々の生命をこの地球に送り込んだ実体のことである。」

ニーチェは「神は死んだ」と云ひました。彼が云ひたかったのは、神が居なくなったのではなく、人々の心から神の存在が排除されたのです。然し、事実、人間の物質的欲望のために神は殺されたのです。そして、そこから西欧の科学文明の独善的な発展が始まりました。

植芝盛平先生は、本当に神の存在を信じて、信じ切っておられました。死の床についていながら、居室に祭られた祭壇に毎朝晩祈りをささげていらっしゃいました。

 

死の前夜、午前二時頃、突然起き上がれると、祭壇に向かって這ひながら「丸山、わしを岩間(神社)に連れて行け。わしは岩間に行かなければならぬのじゃ。」と叫ばれ、おなだめするのに苦労いたしました。

 

開祖植芝盛平先生は「合氣道は愛じゃ」と申されました。愛とは、言葉ではなく、全身全霊で感じるものなのです。愛とは祈りであり、祈りは「意乗り」です。祈りは私達の発する言葉の中に含まれているものではありません。その言葉を発する心の一途さの中に含まれているものです。その一途な愛がなければ、祈りの声や言葉がどんなに美しく響こうが、それは単なる経をとなえる騒音に過ぎません。ヨチヨチ歩きの幼児が、外出から帰った母親を見て、「お母ちゃん!」と馳け寄る、あの姿こそ一途な愛と云えましょう。

 

前号で記したモーセも、今の人に云はせればひどい人間になるでしょう。皆が安楽に豊かに暮らしていたのに、神を求めて荒野に出てさまようこと四十年間、誰にとっても苦しみしかない状態をまねきました。しかし、皆は全身全霊で神を信じ、祈りました。その苦しみを詳細に描ひた、膨大な叙事詩が民族としてのユダヤ人を創り上げたのです。

 

おわかりですか。この一途に神を想ふ心、これが植芝盛平先生の創られた合氣道なのです。

 

「我は神(大自然=天地)と一体である。何故なら我々は神に依って創られ、神を信じる心を与えられた。動物達にはその心は無い。

 

人として生かされていることに感謝して、怖れ、疑念を排除し、勇気を持って生きて行こう。」と、潜在意識にたたき込んで下さい。

 

これこそ、私、丸山が会員諸兄姉に願う唯心会合氣道の心なのです。