アホと合氣道(二)

会主 丸山維敏

 

先日この欄で、「笑ひ」について記しましたが、これが世界で驚く程受けました。

ある外国の道場では、「感得致しました。今日此の日を笑ひの日として、全員で笑ふことにしました。有難う、ワッハッハァ」というメール迄いただきました。

私と秘書の近藤さんは、毎日食事の前に、「ワッハッハァ」と八回、大声で笑うことにしています。すると、大してお腹が空いていない時でも不思議と空いてきます。そして食卓に手を合わせ「天地の恵みをいただきます。生かして頂いて有難うございます。」(これが通常皆様が唱える「いただきます」の正式な言葉です。最近は小学校等で、給食費を払っているのだから「いただきます」等と卑屈になる必要は無いと言って、この言葉を禁止する先生方が多々いると聞きます。この行為が子供達の情操教育にどれだけの影響を与えているか、最近の若い人の犯罪を見ればわかるのではないでしょうか。肉にしろ、米、野菜にしろ、全て生命あるものです。それ等を殺して私達は食べ、生きているのです。そこに感謝の念が無ければ、それは禽獣に等しいと思ひます。)と唱えて、食事を始めます。

食事中は口に含んだ食物は三〇回以上噛みます。「噛み」は「神」に通じます。古代の日本には漢字はありませんでした。お客様をお迎えする上座は「神座」、頭を守る髪の毛は「神の毛」。御幣等の紙は「神」。当時、先進国である中國の漢から入ってきた漢字を見事に日本語に変えた古代人の知恵に感心します。例えば「紫」という漢字は、漢の國では「シ」と読みますが、日本人はこれに「ムラサキ」という言葉を与えました。勿論、漢に敬意を表し「シ」とも読み、「音」と「訓(正式には和訓)」の区別をつけました。

今で言えば「DESK」を「机」と読むようなものです。

閑語休題。

先日、山岡鉄舟の本を読んでいて、ふと、鉄舟のある言葉に目が止まりました。

その前に、私の敬愛する西郷隆盛が、その遺訓で「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るもの也。此の始末に困る人ならでは、艱難を共にして國家の大業は成し得られぬなり。」と感嘆せしめた人物こそ、勝海舟の命を受けて、明治維新前夜に馬を飛ばし、群がる薩摩兵の中を物ともせず西郷隆盛と面会し、江戸城無血開場を約束させた人物、山岡鉄舟に他なりません。

その言葉とは「タトヘ世間ニ剣道ヲ廃止シ、一人ノ相手ナキモ、余ハ誓テ極處ニ撤セズンバ止マズト心ニ憤起シ、年々修行不怠。」

(たとえ世間が時代遅れだとして剣道を廃止し、手合わせをする相手が一人もいなくなったとしても、私はこの道をきわめるまでは決してやむことなく奮起して、修行を怠らないことを心に誓っている)

という言葉です。

明治になり、身分制度がなくなり、廃刀令が出されて武士がいなくなりました。すると、幕末にはあれ程盛んだった剣術の流派や道場はアッという間に消滅してしまいました。

そんな時代に鉄舟は「無刀流」という流派を立てて「春風館道場」を建てたのです。

「一人ノ相手ナキモ」とあります。鉄舟の剣は相手を倒すものではありません。相手はいらない。自分が相手にするべきは、自分自身なのです。

「置かれた場所で咲きなさい」と、ある岡山のシスターは申されました。

このコロナ禍で、患者は下火になったとは云え、下げ止まりで、逆に増えつつあります。

私は稽古はもう二年半もしておりません。けれども、独り稽古と身体の鍛錬、特に足腰の鍛錬は一日も欠かしたことはありません。

私の学生時代の師、池田弥三郎先生(折口信夫先生の高弟です)は申されました。

「丸山。塾を(私の卒業した東京三田の大学では、大学を塾とよんでいます。卒業生は塾員、学生は塾生です)卒業し、何の道、会社を選んでも、必ず十年は辛抱しろよ。例えどんな嫌なことがあってもだ。それがお前の経験となり人格をあげる元となるのだ。十年。忘れるな。」

ニーチェは「生きることはむつかしい。しかし、経験を重ね、生きる意志と氣力に満ちあふれていなくてはならない。」と言ひました。

コロナが流行しはじめたのが二〇二〇年正月。それから十年、すなわち二〇三〇年。私の年令はその時九四才。置かれた場所で咲いてみせましょう。故池田与三郎先生のご教訓を守って。