アホと合氣道(三)

会主 丸山維敏

 

暑い夏が過ぎようとしている時、またも悲惨な事件が起きてしまいました。

静岡県牧之原市で、幼稚園に通う三才の女の子が、迎えのバスの中にとり残され、五時間も鍵をかけられて冷房の切れた車内で熱中症で亡くなったという事件です。以前にも数回同様な事がこの園ではあったそうですが、その度にとり残された子供が、内から窓をたたいて、通行人が氣付き園に知らせて、事無きを得たそうです。ところがあろうことか、この園ではその後、バスの窓を全てペンキで漫画をかき、外からは全く見えなくしてしまったのです。

三才の女の子が死体で発見された時、持っていた水筒は空っぽで、服も暑さの為か、ぬいでいたとのことです。

その時、乗っていた子は全部でたった六人。

子等がバスを降りる時、運転をしていた園長も、助手として同乗していた女性職員も人数を確認しなかったとのこと。六人乗車と聞かされた他の女性職員は、園児が持参している入園カードを確かめもせず、(本来は一人一人確かめる規則なのだそうです)コンピューターに六人登園と打ち込んだそうです。また担当の女性職員は「アレ○○ちゃんが居ないわね」他の女性職員は「どうしたのかしらね」。これで終わり。

去年は福岡県中間市で、五才の男の子が、同様に九時間も施錠されたバスの中にとり残されて死亡した事故が起きています。

私は、この報道に接した時、ハラワタが煮えかえる程の怒りを覚えました。

不注意?そんな言葉で終わるものではありません。最近の種々の事件を見てください。

親殺し、子殺し、理由もない凶悪犯罪、淫乱淫欲の氾濫、泥棒詐欺師、恥ずべき行為によって逮捕される教師官僚、それ等の多い事、目を覆うばかりではありませんか。

何故こうなってしまったのでしょうか。

私が思うに、人間が人間でなくなってしまったのです。つまり熱い血の流れた人間ではなく、冷たい人造人間、つまりロボットになってしまったのです。

ロボットは、入力された事は確実にやります。しかし、それ以外の事はしません。

真偽はわかりませんが、ある学者が言っておりました。「今はコンピューターの時代です。毎日毎日コンピューターにむかって、画面だけを見ていると、操作しているその人が、機械と同化して、生きた人間としての情感がどんどん失われ、心が機械化してしまいます。人としての情感、思いやりが失われていきます。」

真偽の程はわかりません。然し、思い当たるフシはあります。機械ならあたえられた仕事は、それだけは完全にやります。

数年前、アメリカ映画で「ターミネーター」というアーノルド・シュワルツネガー主演のものがありました。その二でロボットである彼が命じられた少年を護り、敵のロボットを倒して、役目を果たした彼が、自ら溶解液の中に身を投じて自らを消し去ろうとする場面です。

「逝かないで」と泣く少年に、「目から出ているその水は何だ」と聞きます。「涙だ。人間は親しい人に死んでもらいたくないのだ」と少年は答えます。ロボット・シュワルツネガーは「わからない」と言って溶解液の中に飛び込み、その身を消してしまいます。

映画の中の話が、今、現実になりつつあります。ひと月程前、十五才の少女が、渋谷駅に近い神泉という所で、街を歩いている見ず知らずの母と娘を、後ろからいきなり出刃包丁で刺して殺そうとしました。二人は重傷ですが命はとりとめたそうです。刺した理由は「人を殺して死刑になりたかった」そうです。

一人殺しても死刑にはならないが、二人殺せば死刑になるだろうというあきれ果てた理由です。

そうです。今、人間は命の尊さというものがわからなくなっているのです。五十代の男が育ててくれた母親に向かって、「早く死んじまえよ。お前がいるとうざったいのだよ」と毎日言って、とうとう七十代の母は首を吊って自殺したという事件が数日前、東京でありました。

前号で、食事の時、「いただきます」という言葉を禁止した学校教師のことを記しました。二宮尊徳は「殺生をしてはいけない、と人は言うが、命は動物だけではない。草も木も全て命があるのだ。木は切り倒されて倒れる直前まで年輪をきざみ続けているのだ。」と申されました。

今は何でも理屈の時代です。言わば「理性」の時代です。その最たるものがコンピューター操作です。「理性」が悪いとは申しません。否、「理性」は必要不可欠です。

然し、「理性」より大切なものがあります。

それは「感性」です。「感性」は、欲求、欲望、興味、関心、好奇心等が湧いてくる源です。「感性」から湧いてくる欲求はそれがどんなものであれ「いま、自分にとって何をすることが命の喜びなのか」を教えてくれるのです。私達が人生を生きる基本は、この「感性」から湧いてくる欲求を実現することにあるのです。

長くなりますので、命の喜び、すなわち感性につき次号にくわしく記します。