感性と理性

会主 丸山維敏

 

明けましておめでとうございます。
コロナ禍も低調になったり高調になったり、予防の為のワクチン注射も、四回目になったり五回目になったり。まるでコロナ禍は、丁度インフルエンザのようにこの先、何十年何百年続くか、全くお先まっくらの状態と言っても過言では無いと思われます。
これは大自然すなわち神が人類をふるいに掛けようとしている、としか考えられません。
聖書に記されている「ノアの箱舟」です。
さて、ふり返って昨年を思う時、幼稚園に通う三才四才五才という小さな子供達が、送迎バスに乗って園に着いた後、バスを運転していた園長や同乗していた保育士によって取り残され、また担当の保育士達も、その子が届けなく来ないのを不信にも思わず、保護者への問い合わせもせず、結果的には、その子達は鍵を掛けられた車内で熱中症の為死んでいた、といういたましい事故が数回おこりました。
また母親あるいは両親が新興宗教に凝り、家や全財産、果ては借金迄してその宗教家の謂う通り寄付献金し、その家族、子供達が路頭に迷うという事件が多発しました。有名な安倍元総理暗殺事件も、これに端を発したものでした。
何故こんなことが続発するのでしょうか。
答えはひとつしかありません。人間が人間でなくなってしまったのです。普通、人間といえば、暖かい血が通っていて、他への思いやりがある、つまり他の獣達には無い情があるのが人間の人間たる由縁ではないでしょうか。
ある学者が言うことには「今はコンピューターの世の中である。ところが朝から晩までコンピューターと向き合っていると、人と機械が同化して、人間が機械化してしまう。」とのことです。もし、これが本当なら、人間が機械化する、つまりロボット化するということです。
ロボットは入力化されたことは忠実に行います。しかし、それ以外のことはしません。
幼児の事件でいえば、その子の実家から幼稚園もしくは保育園に、送迎車で途中事故なく送り届けること、それだけがインプットされます。他もことはインプットされておりません。
新興宗教の事も同じです。高額な寄附献金をすること、それだけがインプットされます。
その家族子供達が路頭に迷うことはインプットされておりません。
ロボットにとって、インプットされたことが、そのロボットの行為の全てなのです。すなわち「正義」なのです。その自分勝手な「正義」を唱えることこそ「正義」なのだ、自分が正しいと思うことは堂々と発言しなさい。第二時大戦後大半の日本人は、小さい時からそう教育されました。学校給食では「給食費を払っているのだから、いただきますなどと卑屈なことを言ってはいけない」と言う教師がいます。
また若者がイベントの後で、あるいはサッカーの国際試合の後で、自分達が散らかしたゴミを綺麗にひろっているのに対し「そこを清掃する為にやとわれている人達の仕事をうばってはならない。ゴミはひろうな」と言った大学教授がいます。
そう言う人達こそ正にロボットではないでしょうか。しかもそれが「正しいこと」と信じ、自分勝手な正義を押し通して学生を教えているのです。
「正しいと思うこと」それを人々は「理性」とよびます。
本当に正しい「理性」は私達が社会生活を営む上で必要です。「人を殺してはならない」「盗んではならない」「暴力はいけない」正にモーセの十戒ですね。いえ仏教でも同じ十戒があります。「不偸盗、不邪淫」で始まる十戒です。
この理性の最たるものは「論語」でしょう。これを自問することを「理念」と謂います。それは「私は如何にあるべきか」「如何に為すべきか」「如何に成るべきか」です。これは人間の在り方の三様態です。人は自分の生き方を自問した時、この三つを考えます。私は事ある毎に、この三様態を自問します。正しい理念。そして自分から選び取った道筋から出てくる苦労からは絶対に逃げてはなりません。「苦労から逃げないぞ」と立ち止まる。そして「引き受けて立ってやる」という氣構えを出す。氣を出す。そうすると力が湧いてきます。
昔流行った歌にこんな一節がありました。
 
浮世の嵐 吹かば吹け
まともに受けてあげる眉
日頃きたえた黒帯に
全てをかけた 俺は男 男だよ。
 
五尺のくろがね 時来なば
一閃飛ばん 高い空
締めて結んだ黒帯に
命をかけた 俺は男 男だよ。
 
しかし、人間である以上、いつも自分を鼓舞ばかりしているわけにはいきません。
人間には、否、全ての生物には、生きる源となる「感性」があります。前述した理性はこの「感性」の一部なのです。

感性は「欲求」「欲望」「興味」「関心」「好奇心」それに「悩み」「苦しみ」等が湧いてくる源です。感性から湧いてくる欲求は、それがどんなものであれ「いま、自分にとって何をすることが命の喜びなのか」を教えてくれるのです。私達が人生を生きる基本は、この感性から湧いてくる欲求を実現することにあるのです。但し、いくら欲求、欲望の通り生きるとは言え「善心は身を助け、悪心は身を滅ぼす」例えがあります。思うままに生きれば禽獣に等しいと言えましょう。ここにまた理性の理念三様態が必要になります。この苦しみを如何に解決するか。次回にくわしく解かしていただきます。