B•B•B

会主 丸山維敏

 

おかしな表題だとお思いでしょう。私は前号で「感性と理性」と題して、理性をも含む感性について記します。と書きました。

実は、その原稿を書いた昨年暮れより、今日に至る迄、余りに人心が荒れに荒れ、理性などと書く氣が馬鹿らしくなってきたのです。

曰く、女に振られたからといってその女を刃物で刺し殺す。パチンコ、競馬で金を使い切って金欲しさに闇サイトの誘いに乗って、同じ見ず知らずの連中と組み、強盗に入って弱い老人をなぐる蹴るして殺して金を盗る。

あるいは難病患者支援の会などと謳って、病に苦しむ人々から、自らは人々を救う医師の身でありながら、臓器移植と称し法外な金額をとって海外に連れて行き、挙句の果てに殺してしまう。

まだまだあります。人々がこのコロナや戦争で暗い世に、唯一明かるい氣持にさせてくれるオリンピックを食い物にして、業者から数億円の賄賂をとる委員。

本当に生きているのが馬鹿らしくなります。

ところで、表題のB•B•Bに戻りましょう。テレビのタレントで、元内閣総理大臣を祖父に持つ人がいます。彼は何かを表現する時、その頭文字をローマ字で発音して人氣を博しました。例えば「とても嬉しい、有難う」なら「T•U•Aです」といった具合にです。では、B•B•Bとは?「忘我没頭、莫妄想(ぼうがぼっとう、ばくもうそう)」です。

莫妄想とは「妄想するなかれ」という禅語です。聖書でいうところの「汝、明日のことを思い患うなかれ」です。合氣道唯心会会員心得にある「大丈夫、何とかなる」です。

忘我没頭とは我を忘れて夢中になるということです。この二つをまとめると「今、この瞬間に心を込めて、今に生きる」ということです。これを日本の神道用語で「中今」といいます。日本の神道の真髄は「常に中今にある」ということを目指すのです。

ここで面白い説を説いた人がいます。明治、大正時代に活躍した神道家で川面凡児という方です。

彼曰く、「古代の日本、飛鳥時代、天平時代の日本語には、「い」という発音と「ま」という発音はなかった。「い」の代わりに「ゆ」を使い、「ま」の代わりに「め」を使っていた。だから、中今は実は「なかゆめ」である」と。

中の夢、夢の中、夢中。

忘我没頭は「夢中になること」、これが中今なのです。

聖徳太子がお作りになった六角堂は夢殿という名前ですが、「ゆめ」は「いま」だから、

今殿、つまり中今になるための装置だったのです。

現行の天皇陛下が皇太子殿下の時、夢殿にお入りになって数日を過ごす儀式がありましたが、これは夢殿の中で夢中になられて中今になられる。余念なく、この一瞬に夢中になって、人々の幸せを祈る人を古代日本人は「現人神(あらひとがみ)と称えました。現天皇陛下はかくして「現人神」になられたのです。

すべてを放棄し、すべてを神に委ね、宇宙の一部となる。我が我が、といった意識であり続けたら、それは人生の空回りというものです。

「合気道の稽古は、天の浮橋に立ってやらねばならぬ」とは植芝盛平開祖から耳にタコができる位、聞かされましたが、これこそ「中今の状態でいる。それが合氣道の極意なのです」という意味であると、今年八十七才を迎えるに及びはっきりと了解致しました。

会員の皆様、中今とは今この時にしっかりと氣を出すことです。今この一瞬に氣を向けて、つまらぬことは考えず思わず、前を向いてこの混沌とした世の中を強く明かるく逞しく歩いて行きましょう。皆様の御健斗を祈り上げます。