今、此処に生きる

会主 丸山維敏

 

かつてアメリカの精神社会に興味を持つ人々の間に流行った言葉に「HERE AND NOW(ヒヤ、アンド、ナオ)」と云う言葉がありました。ご存知のコロナ禍で、もう数年は渡米しておりませんが、もしかしたら今でもこの言葉を使っているかもしれません。

その意味は「今、此処に生きる」と言うことです。これは日本で言うところの「刹那主義」とは全く違う意味で、「過ぎたことを思い返してくよくよしない、過去は返っては来ない。また、未だ来てはいない未来を心配することは、不必要な考えに労力を費やすだけだ。今、此処に生きている。その今に全力を尽くせ。」と言う意味です。

この言葉は元々禅語で、故鈴木大拙師(一八七〇年~一九六六年)が戦前戦後を通じてヨーロッパ、アメリカに禅の思想を拡められた時に当地に根づいた言葉です。

禅語と記しましたが、実はそれ以前から純日本式の古神道に同じ意味の言葉がありました。禅は元々中國から入って来た仏教の一派です。日本に入って来たのは六世紀に入ってからです。古神道はそのずっとずっと前から純日本製で存在しました。

ではこれを古神道で何と言ったかというと、それは「中今」と言います。

先程記しました「今に生きる」という考えは、今、この時にわずかですが、時間の流れがあります。おわかりですか。今、私はこの原稿を書いております。原稿を書くことに余念無く、只それだけに集中しています。これが「今に生きる」すなわち禅の思想です。そこには書くことによる時間の流れがあります。

ところが古神道の「中今」にはその時間の流れがありません。つまり原稿を書く、万年筆を原稿用紙にタッチする、その瞬間が「中今」なのです。「瞬間」と「刹那」は同意語です。

「刹那」がどれだけ速いかと言うと、日本には数の単位があります。一時間は六十分ですね。この分を「ぶ」と読みますと時間のみならず金勘定にも当てはまります。昔、江戸っ子の物売りが「一分一釐も負けるものか」という台詞がありますが、そうです分の六十分の一が釐です。その六十分の一が毫、その下が絲、忽、微‥‥と分から数えて十七番目が刹那(瞬間)です。この前が弾指ですから指パッチンの音の六十分の一の速さを「刹那」と言います。つまりわかり易く説明すれば「中今」とは、「何事も考えず、己のやるべきこと、その瞬間に心身を向け、まず動くこと」なのです。合氣道で言うところの「氣を向けること」なのです。「面倒だな」と思っては瞬間になりません。他人に不愉快なことを言われても、その瞬間に「ニコッ」と笑うことです。「その瞬間」に何も考えず思わず「まず動く」ことです。

指パッチンの六十分の一の速さで表情も身体も動くのです。そこに感情の入る隙はありません。「一瞬の隙も無い」正に武道の極意ではありませんか。

「中今人生」この言葉を胸にきざんで日々を過ごしましょう。